日本発スイス経由英国。日記、雑記、こころの整理整頓記。
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叔母(長文)
今日は母親代わりの叔母との思い出話。
主に母が亡くなった頃の話です。
非常に長くなりました。お断りしておきます。


亡き母の妹の彼女。
末っ子で母とは8つくらい年が離れていたせいで 
小さい時から叔母というよりはいとこの間では
お姉さんみたいな存在だった。
彼女、19で結婚したんだけどその時のウェディングドレス姿
子供心になんて綺麗なんだろうってうっとりしたのを覚えてる。
私のどきどき照れぶりがわかるその時の写真。  





母姉妹たちはみんな仲が良くて子供づれで
にぎやかに付き合いをしていた。
小学生くらいのときは夏休みに叔母のところにいとこの
女の子組で何泊かして集まるのを毎年楽しみにしていたっけ。

叔母はとにかく子供好きでいつ遊びに行っても
明るく朗らかで面白くって一緒にとことん遊んでくれる、
いとこの間でも人気ナンバーワンだった。
トランプで遊びまくって負けた人はお風呂の用意、とか
カレーライス作り担当、とか彼女の子供二人含めたいとこ集団
7人くらいだったか、それはそれは賑やかだった。
狭い団地の居間でいとこみんな雑魚寝状態でじゃんけんで
寝る場所を決めたり朝早起きして近くの川の土手にみんなで
散歩に行ったり、夏休み映画に連れて行ってもらったり
想い出は尽きない。

心配性で世話焼きで口うるさいとこもあるので
中学生くらいからか、年頃になってくると学校のこととか
私の生意気ぶりをストレートに怒られたりしてうるさい存在に
なったけど子供の頃程ではないがたまに遊びに行ったり
付き合いは続いていた。
ロンドンに1年間留学することが決まった時も
夢一杯の状態で遊びに行った私の無邪気さに閉口することもなく
あたしは英語なんて大の苦手だけど、ひとりで行くなんて
お前は勇気がある、すごいね、頑張っておいでねと励ましてくれた。

母が癌に倒れ、留学を切り上げて帰国した時。
わたしと叔母の間に特別な「絆」が芽生えることになる。 


最初何日かは父が母の病状については母方の兄姉妹には
殆ど何も教えてない状態だったので見舞いに来るたび
彼女が母に「早く良くなってまたテニスしに連れてってよね!」
なんて明るく励ましてるのを聞くとたまらなかった。
帰国して1週間くらいだったか表向きは良くおぼえてないけど
何かの摘出手術、実際はもっと悪化する前に何日かでも
家に帰れるようにするための緊急の手術をする日。
たまたま叔母だけ見舞いに来ていた。
まだ父に何も言うなと口止めされていたから辛かったけどだまってた。
手術が始まって彼女と私は飲み物を買いに売店へ。
父が待合室に残った。

帰ってくると父が肩を震わせて床の一点を見つめていた。
叔母が、どうなさったんですか?と半分泣きながらきくと
「もうだめだって・・」と涙をぽろぽろこぼしながら何があったのか
説明する父。
始まってすぐに担当医師が手術室から出てきて宣告されたと。
もう手がつけられないほど癌が広がっていて
開けて、すぐ閉じた、そんな感じだったらしい。
そこではじめて母の本当の病状を知った叔母。
多分余り良くないんじゃないかと思ってたけど、そんな・・・
って絶句して泣きじゃくった。
父と叔母が泣いている。母はもう助からない。
絶望って多分あの時の気持ちを言うんだろう。
生まれて初めて男泣きする父を見て母が助からないということと
同じくらい動揺したのをおぼえている。
隣に座って震える父の手を握った記憶がある。
そんなことしたのもあれが最初で最後だった。
叔母はといえばつっ立って天井を見あげてわんわん泣いていたっけ。

当時父は仕事があったし兄は北海道で週末くらいしか
来れなかったので病院には私が通っていた。
その後、だんだん父が病院に居るのを嫌がってきて
すぐに帰ってしまったりするようになって叔母が代わりに
よく一緒に居てくれるようになった。
その頃には母がもう助からないということは
母方の親戚にも伝わっていたので母の姉がお見舞いに来て
母の居ないところで私にどうして、こんなのひど過ぎる、いやだよ、
と言いながら泣かれてしまい困っていると叔母が
「お姉ちゃん、お姉ちゃんなんだからしっかりしてよ!
ヤッコちゃん(母のこと)この子のお母さんなんだよ!
娘のこの子がこんなに頑張って戦っているんだから
お姉ちゃんが泣いてちゃ困るのよ!」
と半分怒りながら半分泣きながら励ましていた。

父がダブルで加入していた癌保険のお陰で母は
ホテルの部屋のような贅沢な個室に移った。
他の患者さんたちの目もあるし最期を見取るのには
個室がいいだろうということになったらしい。
私や叔母にとっても大部屋に一緒にいた患者さんたちとか
予告なくお見舞いに来る母の知り合いから変わりつつある母の姿を
かくまっておきたかったので助かった。
ベッドの横に鏡台があったが叔母が迷わず取り外してもらうよう手配した。

病状がますます悪化して泊り込みで看ることになった時も
お前ひとりでなんて酷すぎるからあたしも一緒にいるよ、って
ずっとふたりで最後の何日か病院に泊まることになった。
あたしの家のことは心配しなくていい、みんなでお前と一緒に
泊まりたいって言ってるくらいだからって。

だんだん自分の知っていた母とは違う病体と化していく
母と過ごした最後の時間。
感情がそれまでにすでに殆ど磨り減った状態だったにしても
叔母がいてくれたことがどんなに支えになったかわからない。
食事のときは病院の外に出て私のこれからのこととか
母に本当のことを告げられない苦悩とかいろいろ話を聞いてくれた。

夜暗い個室で痙攣がだんだんひどくなっている
母のシルエットを見ながらソファーに座っていたら
無言なまま叔母が私の頭をゆっくりなで始めた。
何にも言わなかったけど動作だけで彼女の気持ちが伝わってきて
悲しくて悔しくて寂しくてどうしていいかわからなくて、泣けた。
母に聞こえてはいけないから声を押し殺して、ひっそりとふたりで泣いた。

いつ何時痙攣による発作があるかわからなかったり壮絶な状況で
叔母と私とタバコを交代に吸いに行く以外は一緒に病室で過ごした。
ふたりだったけどとても孤独な時間だった。
ひとりだったらあそこまで目をそむけずにいられただろうかと思う。
冷静、にいられただろうか。
母なんだけどもう母ではない。
健康そのものだった母の体を猛スピードで蝕んで終には
ぼろぼろにしてしまった癌という恐ろしい病魔がベッドに横たわっていた。
恐ろしい。怖い。
叔母も私も母にはすまなかったがそういう気持ちで一杯だった。
「見ているの怖いよね。あんまりヤッコちゃんを苦しめないで
もう終わりにしてくれるといいのにね。」
「うん。お母さんの逝きたいときにすうっと楽に逝けたらいいね。」
そんな会話をよくしていた。

そして最期の日。
息を引き取った直後だったか直前だったか。
家族だけでお別れをし終わった後にどうしてもしたいことがあった。
最期まで一緒に戦った同志の叔母とふたりだけで
母に会いたかった。
そう父と兄に告げると兄は承諾したが父が渋って病室を出ようとはしない。
もういちどお願いすると兄が「いいじゃないか、お父さん」と
父を連れて行ってくれたので入れ替わりに叔母を呼んで
再び三人だけの時間。
ふたりで、ほんとのこといえなくてごめんねって母に詫びた。
それからやっと母の前で思う気持ちどおりにふたりで泣いた。
もう隠さなくていいんだって一種の開放感みたいなものに浸りながら。
「ヤッコちゃんを差し置いてこの子の母親になろうなんて
そんなことは絶対無理だけど、でも精一杯代わりに面倒見るから
心配しないで見守っててね!」
ぼーっとしながら叔母が母に誓うのを聞いていた。

あれから15年。
この誓いどおりに叔母は今日まで本当に真の母親代わりとして
私を支え続けてくれている。
夫と結婚することが決まってお披露目も兼ねてふたりで日本に
行った時も親代わりとして叔母と、叔父とでそれからのこととか
一緒に話し合ってくれた。
言葉も通じない、言ってみればだたの外人だった夫だけど
叔母家族は本当によく迎えてくれた。
結婚式にもスイスまで叔父代理の長女ちゃんと来てくれて
挙式のはじめから最後まで泣きどおしだったのには参ったけど(笑)
あのお披露目来日から回を重ねて今では夫もすっかり家族の一員。
叔母と夫は言葉は片言英語と日本語だけど不思議なくらい
分かり合っている。

父の再婚問題で実家がなくなってからも、
日本に帰る家が無くなった、なんて思うんじゃないよ。
あたしのとこで良かったら狭いけどいつでも帰って
来て良いんだからね、って何度言われたかわからない。
お言葉に甘えて、というのではないにしても最初のうちは
本当に他に帰る所がなかったのもあったが
彼女の家族は今ではかけがえのない私の日本の家族。
彼らに会うのが楽しみで帰っているようなものだ。
叔父は仕事先でも私のことを娘だと言っているらしい。
子供たち(長男、長女とその連れ合い)も私にとっては 
いとこというよりかはきょうだいみたいな存在。
今までも夫と帰るたびにみんなして美味しいラーメン屋さんに
連れて行ってくれたり温泉に一緒に行ったりあちこち
観光に付き合ってくれたり毎回毎回何処行こう何しようって
めいっぱい相手してもらっている。

もうすぐ、叔父の還暦祝いのため、また日本に帰る。
今年の初めにあったばかりなんだけど
叔母はじめ、みんなにまた会えると思うと待ち遠しくてたまらない。

ヤッコちゃんには恨まれてると思うけどヤッコちゃんのお陰で
こんなに素敵な娘がもうひとりもらえて、あたしは何て幸せ者・・
叔母がよく口にする言葉。
母が残してくれた絆。お母さん、私からもありがとう。
着いたらまたふたりでお墓参りに行くから、待っててね。
コメント
この記事へのコメント
そんなことが・・
涙ボロボロこぼしながら読んで、書いてます。
大変だったんだね、本当に・・。
お母様は、お若い時に病気で亡くなられた、と聞いていたけれど、実際こうして読ませてもらうと、あまりに悲しすぎる、むご過ぎる・・。

でも、stipaさんには素敵な叔母様がいらっしゃるのね!
今では、おかあさん代わり。
そして、叔父様も、おとうさん代わり。
良かったね。

15年経った今、こうやって書くことができたのかな、と思いますが、辛かっただろうね。
経ってみれば、15年。
でも、その間、本当に辛かったと思うよ。
よく乗り切って頑張ってきたね。
あ~。画面がよく見えない・・。
何だかまとまらない文章になっちゃったけど、8月の帰国は、また叔母様との再会、嬉しいね♪v-233v-233
2006/07/12(水) 12:00:32 | URL | マチルダのママ [ 編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2006/07/12(水) 16:47:47 | | [ 編集]
マチルダのママさん
もう15年、ですがこうやって思い出してみると
つい最近のことのように鮮明で私も
書いてて泣いちゃいましたけど・・。
8月に帰る事が決まって叔母とその家族との特別なつながりの
始まりはあの頃だったのでかなしくなるの承知で
思い出したくなりました。
誰でも生んでくれた母親はひとりしかいないですから
出来ればあんなにはやく逝ってほしくはなかったです。
この思いはいつまでも変わらないだろうな。
辛かったけど夫、叔母とその家族、親戚、それからやっぱり
兄に支えられてここまで這い上がったって感じかなぁ。
日本にも私の家族がまだいる、待っていてくれるというのは
幸せなことで有り難いです。
沢山また楽しい想い出作りに行きます♪
マチルダのママさんのお気持ち、心にすーっと染み入りました。
とても嬉しかったです、どうもありがとう!
2006/07/13(木) 04:16:29 | URL | stipa [ 編集]
涙がとまりません
私は、つい半年前に父を亡くしたばかりなので、他人事とは思えない。
看病も大変だったね。
変わっていく姿・・・つらいね。
私の父も、スポーツ大好きのアウトドア派。なのに、最終的には半寝たきりになってしまって。
stipaのお母様の方がきっと、壮絶だったに違いないと思う。
最期まで付き添ったstipa。
ほんとに辛かったね。。。
叔母様、とっても素敵な人ですね。
stipaは、幸せ者だね。
8月の帰国、思いっきり楽しんでね♪
2006/07/13(木) 22:03:53 | URL | sakura [ 編集]
私も
生まれた時から母が入院生活だったため、あっちこっちの母の姉妹の家で育ちました。
その後母はなくなりましたが、おかげで私には未だにこうるさい母(叔母たち)がいっぱいいます。
みんな自分がイチバンの母だと思ってるみたいで(笑)。
stipaさんもお母さんを亡くされたのは辛いことだと思いますが、私と同じく素敵な叔母さまがいて天国のお母様も安心していらっしゃいますね!
2006/07/14(金) 00:32:12 | URL | bonbon [ 編集]
昨日この記事を読んだのですが
コメントはうまく書けそうになくて
そのままパソコンを閉じました

私も20代前半で両親をなくしたので
あれやこれや思い出してしまって・・・

人間が死んでいくって
本当に大変なことですね
自分も余り苦しまず
周りにも余り迷惑をかけず
静かにこの世を去る
なんて死に方はなかなかできないようです

特に自分が頼りにしていた人が
段々衰えていく姿
苦しんでいる姿
時には人格までかわってしまう姿
そういうのをみるのは本当に辛いですよね

残される側も
みんなの気持が一致団結とはなかなかいかず
そのために傷つけあったりもして・・・

2006/07/14(金) 14:18:51 | URL | katasumi [ 編集]
途中で・・
アップしてしまいました
すみません
続きですm(__)m

stipaさんも本当に辛かったと思います
男の人ってそういう時結構弱虫で役にたたない・・うちもそういうところありました
力になってくれるおばさんがいなかったら、もっといろいろ傷つくことがあったでしょう
よかったですね
でもそれもお母さんの人徳もありますね
オバ様はきっと大好きなお姉さんの可愛い貴方を一人にはしておけない気持がいっぱいだったのでしょう
そのオバサマを見守ってくれるおじさんも
心の大きい愛情深い人ですよね
心優しい人が回りにたくさんいるから
今のstipaさんがいるのね
若いのに人間的にいろんなことがわかってるな~と常々感じてました
辛い経験だったけど
確実に人間的に成長した日々だったのではないでしょうか
私も両親がいた頃は内弁慶のどうしようもない他力本願の人間でしたが
看病を通じて
少しは自立できたかなと思っています
私の場合は余り以前がひどかったので
他の人に少し近づいたという程度ですが
お母さん
今のstipaさんを天国からみて
安心してるでしょうね

それから
なくなったときほっとしたという気持
すごくわかります
大好きだった人が苦しんでるのって
辛いし、怖い、不安
複雑な気持でした

なんか1日たっても文章はまとまりませんでした
だらだら書いてごめんさい
日本での滞在
楽しんで下さいね
2006/07/14(金) 14:40:15 | URL | katasumi [ 編集]
sakuraちゃん
これを書くとき、きっとsakuraちゃん読んでくれるだろうなって
思ったんだけど・・思い出させちゃってごめんね。
叔母は実は一番下の子を亡くしていて
それでかな、なんと言うか
「強さ」があってね、当時も私をサポートしてくれて後ろからしっかり
支えていてくれたんだと思う。

sakuraちゃんにとってはまだ日が浅くて
とてもとても辛いことだと思うのに前向きな日記に
いつもsakuraちゃんってすごいな~って感心してたんだよ。
私にはとても出来なかったことです。

叔母とその家族という「家族」のお陰で日本に帰るときも
辛い思いとかしなくて済んでる。感謝してます。
母の性格からしてちょっとひがんでるかも、だけど(笑)
きっと喜んでいてくれてると思う♪

v-496何食べようか今から密かにリスト作ってたりして・・
うんうん、めいっぱい、ね!ああ待ち遠しい・・(笑)
いつも励ましてくれてほんとにほんとにありがとう!!
2006/07/15(土) 02:29:22 | URL | stipa [ 編集]
bonbonさん
そうだったんですか・・。
一体どんなご苦労があったかと想像するだけで
言葉になりません。

bonbonさん、前回私が日本に行くときに兄のことでここに
書いたときも心配して下さって、とても優しい方という印象以外に
何か特別なクオリティーをお人柄として感じたんですけど
それが何故なのか解りました。

沢山の叔母さまに・・。みなさんbonbonさんみたいにユーモアの
センスばっちりで優しくて素敵な方なんだろうな。

叔母とする母の思い出話も笑って出来るようになったし
私としては大きな進歩です!母もきっとやれやれ、と
思っていることでしょう。

お話きかせて下さって(というかsharing it with meと言いたいのですが
日本語が浮かびません、ごめんなさい!)どうもありがとうございました!
2006/07/15(土) 03:09:43 | URL | stipa [ 編集]
katasumiさん
katasumiさんもお母様をずいぶん前に亡くされている事は
以前お話きいて知っていたので思い出させてしまうかなぁと
思ったんですが、ごめんなさい・・
ご両親とも二十代前半で。そんな大変な経験をされていたんだ・・

叔母はほかのきょうだいとは年が離れすぎているということで
一緒に遊んでもらったこととかから始まって
私の母を一番近くに感じていたようです。
ほかのおばたちの連れ合いの中には妹が病気だからって
家庭をおろそかにしないでほしい、みたいな
信じられないこと言われた人もいたり。
仰るとおり、叔父は昔から義理と親とか関係なく
子供の頃からいつ遊びに行っても嫌な顔しないで
本当に喜んでくれて、可愛がってもらいました。
そんな叔父と叔母の家庭だから私もとっても居心地
よく、今日まで過ごさせてもらってます。
母もああ良かった、と安心しているはず、ですよね。

あの経験が私を人間的に成長させたかどうか、どうなんでしょう??
「死」というものはほんとうにある日突然、情け容赦なく
やってくるものだ、というのは実感しました。
もうだめなんだ、とわかってからは母の苦しみ、薬で抑えられるものは
そうしてもらって、かつ延命はしないでほしいと
医師に家族でお願いした覚えがあります。
終わって、ほっとした気持ち。よくわかりますって言ってくださって
ありがとう。当時は罪悪感でいっぱいでした。

逃げる父以外にも、日本の男性って何?と思ったことで
良く覚えているのは亡くなった後お葬式などの時の
一部のいい大人の意地の張り合い、エゴ。
それまでは苦手だった伯父にすごく良くしてもらってびっくりしたり
小さい頃は大好きだった別の伯父がとんでもない
エゴイストなことがわかって幻滅したり(苦笑)
思わず各自の本音が失態として映って
めざわりったらなかったな・・。

母を失うということ。時には自分でずいぶん気持ち的に前進したな、
と頼もしく思い、時にはああ、まだまだ全然って思います。
波打ち際で波と追いかけっこしているみたいです。
荒波だったけどだんだん穏やかな広い、静かな海に
なってきているかな・・

いろいろ考えて、思って書いてくださったんですね。
だらだらなんてとんでもないです。
こうやって私のために沢山書いてくださったお気持ちが
とても嬉しいし、ありがたいのです。
katasumiさん、どうもありがとうございました!


2006/07/15(土) 04:30:24 | URL | stipa [ 編集]
皆さんと同じく涙無しには読めませんでした。
簡単にコメントできる内容ではなくとても悩みましたが、ブログから感じられるStipaさんはこんな辛い経験をしているStipaさんだからこそ強さを感じながらも人一倍思いやりのある人なんだ思いました。
自分にはまだ両親健在していることをより感謝し、大事にしていかなければいけないと言う事を自覚しなければとも思いました。

とてもステキな頼れる伯母様が居てうらやましいです。私は家族以外に信頼できる人って思い浮かばないから・・・。
2006/07/15(土) 05:33:56 | URL | kleeblaetter [ 編集]
kleeちゃん
読んでくれただけで嬉しいのに
コメントまでどうもありがとう。
叔母がいなかったら確実に日本には帰りづらくなってただろうな。
他の伯母とは連絡もとってなくて日本に帰ってから
ひょっとしたら会う程度になってしまって寂しいけど
叔母ファミリーがいるからいいのだ、と思ってる。

両親を大事にすること。簡単そうで難しいと思う。
外国暮らしだと余計だよね。
kleeちゃんにはそれがちゃんと出来てると思うよ。
一緒に旅行したりお母さんのためにサンダル
探してあげたり、さりげなく素敵。

私はもっと若くて生意気なときだったから大人の会話が
出来そうかなって言うときにはもう遅かったんだよね。
母をどれだけ大事に出来てたか自信がない。親孝行なんて
年でもなかったし留学なんかして心配させちゃったし。
健在の父とは絶縁とまではいかないけど何もないし・・かといって
連絡とろうとも思わないから自然体で
そのまんまにしてる(笑)
思いやりのある娘だったら連絡くらいするだろうとか思ったり・・でも・・
そのへんはまだ少し揺れてます。

もうすぐスイス旅行だね♪いいな~私もまたいつか
叔母家族とアルプスに行ってみたい!
2006/07/15(土) 07:13:14 | URL | stipa [ 編集]
そーでしたか!
オイラの母も昨年の冬に他界した。
主治医から本人(母)には本当の事を話さないようにと口止めされた。
自分も癌という病にかかった経験があるので、病に対して怖さはなかったけど、
言えない辛さはあった。
そして、入院中に母がオイラにそっと「父を頼むね!」と言った時は冷や汗が出た。
母は知っていたのだと思う。

帰国&墓参り、楽しみだね!
2006/07/22(土) 23:46:39 | URL | かとー [ 編集]
かとーさん
かとーさん、お久しぶりです!

昨年の冬、でしたか。まだ昨日のことのようでしょうね。
癌は怖くなかった、そう思えるってすごい。
自ら経験されたからこそ、の精神の強さだと思います。

本当の事、もし母に話したらどうだったのか・・残酷?止めの絶望?
教えなかったのは残される私たちの勝手だったんだろうか
思いやりだったのか今でもわかりません。
ただ、母は一度も私に問い詰めたりしなかったし多分
悟っていたのだと思います。
最期まで母親として娘をかばってくれたように思います。
かとーさんのお母様も御自分のことよりお父様やかとーさんのこと
心配されてたんですね。切ないです。

もうすぐ、31日に東京に着きます。すごく疲れてなければ
着いたその足でお墓参り行って来たいと思ってます。
北海道には今回行けそうにないですが
久しぶりの日本の夏、とても楽しみです!
2006/07/23(日) 00:14:15 | URL | stipa [ 編集]
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